History

研究室小史

「生まれる前から東工大!」

 東工大と教育の研究というのは結びつきにくいかもしれない。(「本当はそんなことないんですよ」という話は「教育工学とは」を参照。)しかし、データによれば、高校教員の80%は一般大学出身者(残る20%は教員養成系大学・学部出身者)なのです。私の場合も、大学進学について高校時代の担任の先生に相談する際、「高校の教員になりたい」という話をしたら、教員養成系大学・学部ではなく、一般大学に進学することを勧められました。ということで、東工大に松田研ができる「そもそも」をたどると、東工大に入学した昭和5?年(今年=平成14年に修士課程に入学した学生さんによれば「えー、私が生まれる前から東工大!」)に行き着くのでありました。ちなみに、人間行動システム専攻現教官の中で、最も東工大在籍期間が一番長いのは。。。

「何と、始まりはYMO!」

 東工大で取得できる教員免許は、中学、高校の数学と理科、高校の情報と工業です。もちろん、私が入学した当時は、情報はありませんでした。高校の数学の教員になろうと思った私としては、当然、1類=理学部に入学。で、素直に考えると数学科に進学ということになりますが、高校時代から心理学に密かな関心を寄せていた私にとっては、新入生セミナーで聞いた小林孝二郎先生の人工知能の話は大変興味深く、また、教職の授業をとりはじめて評価に関心をもったこととが動機付けになって、情報科学科に進学することに(評価には統計の勉強が必要ですが、統計の勉強は数学科ではなく、情報科学科に進学しないと勉強できないんですね)。これが独自路線を歩み始めたきっかけで、さらには、教育に関係することで卒業論文が書きたいと思い始め、3年生前期にとった「教育工学」の第2回授業の後、(1年生の時に「評価」の話しを「教育心理学」の時間にしてくれた)坂元昂先生に相談することに。すると、「いやー、じぁあ、私のところに来なさい!」というわけで、そのまま研究室に居候することに。実は、坂元先生が所属していた工学部教職学科目という組織は、特定の学科に属していないので、それまで学生を正式に卒研生として受け入れてなかったそうですが、私が研究室に居候することになった直後から、学内措置で、大学院の制御工学専攻とシステム科学専攻を兼担(この用語は、学内的な定義ではちょっと違うのですが、ここではわかりやすさのためにこの用語を採用)することになり、私が4年生になった時から、制御工学科の卒研生を受け入れることになったそうで、そんこんなで、その年、坂元研の卒研生として所属した、吉川君、私(松田)、大田君は、栄えある第1期生に(蛇足ながら、私の場合は、あくまでも情報科学科の所属だったので、藤井光昭先生との共同指導でしたが、そもそも坂元先生の兼担も含め、東工大は研究室所属には結構柔軟ですので、興味のある方は所属学科に関係なくご相談あれ)。でもって、坂元先生からは、3人の頭文字をとって「YMO(ちなみに、「生まれる前から東工大!」と驚く世代の方には、YMOとか言っても「何それ?」と言われそうなので、当時、有名だった「Yellow Magic Orchestra」のこと、とだけ書いておきます。)」との命名をして頂きました。

「修行時代」

 自分の名前のついた研究室を持つということは、弟子をとる力量がついたということで、剣の道なら免許皆伝、落語の世界なら真打ち昇進ということになろう。そして、その段階に到達するには、やはり(厳しい?)修行時代も必要である(そして、免許皆伝後に道場破りに看板を持って行かれないためには、修行時代はそれなりに厳しい方がいい、というポジティブな発想が重要である)。ということで、幸運にも学生として所属していた東工大の教職学科目に助手ポストの空きができ、高校の教員になる道から、教員を育てる道へと方向転換。そういうわけで、「教師教育」は今でも松田研の最も重要な研究テーマになっています。とはいえ、教職学科目の研究室には(当初は坂元研だけでしたが、その後、新たに赴任された繁桝研[現在は東大]、牟田研、市川研[現在は東大]にも学生が所属するようになり)、いろいろな興味関心で所属する学生がいたこと、また、坂元先生が文部省などから請け負ってきた仕事にも応じて、研究テーマは広がっていくのでありました。これは、正に、免許皆伝への修行となり、まあ、どんな研究テーマでも、それなりに指導する術を身につけられたとでも言いましょうか。。。ついでに、毎年頂く研究費の申請書類や報告書作りで、作文能力も向上。お陰で、助手や事務官無しでも、何とか研究室が維持できるわけです。これって、研究者としての「生きる力」として重要かも。

「研究室のはじまりはどこから?」

 さてさて、話しはいよいよ、研究室の誕生ということに。文字通りの免許皆伝という意味では、「免許証=ペーパー」が必要でありまして、とある日、学位を?年以内にとりなさいという至上命令が。そのためには、まず、論文が?本位必要だからね、というわけで、不眠不休、切磋琢磨の日々を経て、ようやく平成3年に学位取得(これは、坂元先生の働きかけでできた、システム科学専攻の「教育システム工学講座」があったからこそとも言えます。やはり、「教育工学」をテーマにして学位を出せる大学院講座があるということは、とても大切です)、とともに、助教授にして頂き、めでたく部屋の看板に自分の名前が書ける日がやってきました。とは言え、既に書いた通り、教職学科目はそのままでは学生さんをとれる組織ではないので、しばらくは教職課程の授業に専念しておりました。ところが、平成5年の春、繁桝先生のご推薦を頂き、制御工学専攻の兼担を拝命、「いやいや、しかしそんないきなり学生さんは来ないでしょう。」と思っていたら、「あ、松田君、今度所属する学生さんが来ているから」と繁桝先生にいきなり言われて、野村君とご対面! というわけで、「初めてお弟子さんをとった時」を研究室の始まりとすれば、これが研究室の始まりということに。

「教職学科目から人間行動システム専攻に」

 その後の話は、おいおいということで、とりあえず、簡単に。野村君以降、ほぼ毎年のように卒研生や修論生が所属するようになりましたが、そのうち、大学改革の波が押し寄せ、東工大では、大学院重点化が重要な目標に。その流れの中で、大学院社会理工学研究科が設立され、教職学科目は、人間行動システム専攻の人間開発科学講座として組織替えになりました。というわけで、私が今までいろいろお世話になった、工学部教職学科目、システム科学専攻教育システム工学講座は、それぞれ大学院重点化の中で組織替えになりましたが、それらが集約する形で、現在の人間行動システム専攻人間開発科学講座があります。ですから、今でも、講座のOB会は、これらの研究室の卒業生と合同で行っており、松田研の卒業生は、その一員として多くの先輩とのつながりも持てるわけです。

「松田研の宝物?」

 研究室の形や文化を作るのは、指導教官と言うよりも、やはり数に勝る学生さんたちですなあ。その中でも第一期生の影響力は大きいわけで、研究室のコンピュータ&ネットワーク環境も、野村君の影響が今なお色濃く残っています。ちなみに、殿堂入りした旧松田研ホームページも、彼の作品。そして、野村君が博士課程を修了して3年経った平成14年、約10年振り(?)に新しい学生さんの手でリニューアルとなりました。さあ、このページが殿堂入りするのは何年後か?

(松田稔樹)

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